順子さんは何もかもわかったようにピアノの前に立った。

 石川先生が順子さんの顔を伺いながら演奏を始める。


 アメイジング・グレイスだ。

 雅也君が静かに車いすを押して、ピアノマンを部屋の中央に進めた。


 順子さんの透き通った声が部屋の中に響きわたった。

 アメイジング・グレイス、その驚くべき神の恩寵を僕はまだ知らない。


 様々な形で僕らの日常を断ち切った阪神大震災。

 神がいればあのような地獄はあるはずはない。


 無慈悲なだけの神を信じるわけにはいかない、と僕はあの日からずっと思ってきた。

 それでも、この親子には驚くほどの慈しみがあってほしいと願う。


 ピアノマンも雅也君も幸せに生き続けて欲しい。

 人間はやがて死ぬ。死ねば終わりだ。何もない。血肉は灰となり土となり消滅する。

 だが、人は人の心の中で生き続けることが出来る。


 残された人に慈しみを与え続けることができる。

 それを神と呼んでもいいのではないのか。


 僕は両手を合わせ祈った。初めて心の底から祈った。


 亡くなったピアノマンの奥様であり雅也君の母に対してひたすら祈った。


 そして、三人の絆を生んだ雅也君の実の両親に対しても祈った。

 犠牲になられた多くの命に対しても。


 みんなの絆はいささかも色あせず息づいていると感謝しながら祈り続けた。


 歌い終えた順子さんは、今度は一転陽気にステップを踏むとテネシーワルツを歌い始めた。


 石川先生が体でリズムをとりながらピアノを奏でる。

 雅也君が小さくリズムをとっているようにも見えた。


 胸のつかえが取れ、自分の体に言いようのない清々しさがこみ上げてくるのがわかった。

 順子さんが躍動する。


 ピアノマンも車いすから身を乗り出すようにしてリズムをとる。

 窓越しに西陽が差し込んだ。


 僕ら五人に何か新しい力でも与えるように、光の粒子が燦々と降り注ぎ続けた。


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                                了


                                by  ガバチャ