「ねえ、今仕事している隣の埋め立て地に行ってみない」
 律子が言うと、「三時のじいさんか」と木村が微笑んだ。

「きっと穴場に違いないわ」
「でっかいチヌが釣れるってか」
 木村は鼻を啜った。

「そうそう、チヌって黒鯛のことやって」
 律子は思い出したようにインターネットで調べたことを話した。

 木村は話を聞き終えると、黒い鯛なんて初めて知ったわとだけ言った。
 律子も調べるまでは黒い鯛など聞いたこともなく、もちろん見たこともなかった。

 ただ、インターネットによると大阪湾で最も一般的な釣魚とされていた。
 歴史も古く大阪湾はかつてチヌの海と言われていて、今から十一月までが一番釣れる時期らしい。

 約束の土曜日、二人は自転車で近くの釣具屋に向かった。
 仕掛けを色々見たが、結局、店頭に置いてあった全て一式セットを手に取った。
 九百八十円なのに竿もリールも仕掛けも何もかもついている。

「最初はこんなんでええんやないか」
 と木村が苦笑いした。

 律子も同意し、餌のオキアミを買い足して四号岸壁へと向かった。
 コンテナを積んだ大型車が行き交う臨港線を横切る。倉庫街の向こうに海が揺れていた。海の色がいつもより濃く、点々と白波が立っている。律子は木村の言った、混ぜられたらよく釣れるという言葉を思い出した。

 いつも老人が止めているところに自転車を置いた。
 岸壁を海沿いに進むと潮の香りが鼻を撫でる。

 台風は逸れたが、真っ黒な雲が早く流れていた。
 時折、日光がサーチライトのようにひかりの帯をつくっては消える。

「きっと昼から風も止んで晴れるって」
 と木村は爽快な表情だ。

 律子は、濃く混ぜられた水面に目を落とし胸を躍らせた。
 チヌが釣れるかもしれない。

 小さなクーラーボックスでも買えば良かった。
 何匹か釣れたら寮のおばさんにあげよう。
 などと、勝手な想像を膨らませる内に埋め立て地の先端に到着した。

 風が強いせいか遠くまで景色がはっきりと見える。
 淡路島や明石の橋までもがくっきりと浮かび上がっていた。

 意外にも船がいない。
 大きな貨物船が行き交っている風景を想像していたが、一隻も見えない。

 紅白の煙突のようなパイプを数本立てた、工事用の船が直ぐ横に着岸されていた。
 律子はナイロン袋を開けて釣り竿を取り出した。

 思ったよりもしっかりした製品だ。
 リールの使い方が説明書に書いてある。

 二人は確かめるようにリールの金具を立てたり倒したりした。
 竿長は三メートルほどあり直立した岸壁での釣りには十分だった。

「深さどんだけあるんかなあ」
 木村が海面を見下ろす。

「結構深いんとちやうのん」
 律子には想像もつかなかった。
 山育ちの二人にわかるはずがない。

 海を埋め立てる仕事をしていると言っても、土地になったところを閉め固めているだけなのだ。
 二人とも海の知識はほとんど無い。