元々釣りの好きだった老人が、知人の紹介で入った海釣り団体は、単に釣技を磨く集まりではなく釣りを通して市民の暮らしを楽しく豊かにすることを標榜していた。

 ある日、老人らが釣りを楽しんでいた場所にも突然フェンスが張られた。
 そこは釣りだけではなく、市民がジョギングや散策をし、時には家族連れがお弁当を広げるような憩いの場であった。

 老人らが来訪者らにアンケートをとったところ、保安という名の締め出しに納得のいかない人の方が圧倒的に多かった。

 人がいない所ほど物騒なことが起こるし、人がいないところでゴミの不法投棄は多発する。
 釣り人や市民を閉め出して閑散とした場所にするよりかは、かえって多くの市民で賑わっている方が治安にはプラスになるはずだ。
 と、海釣り団体は釣り人側の考えを主張した。

 そんなやり取りの最中、同じ国の機関の別のセクションから、大阪湾をきれいにするために一緒に協力しないかとの相談を受けたのである。

 再三相談を持ちかけてくる国の担当者の熱意に、海釣り団体の疑念もやがて溶けた。
 釣り人の自分たちに何ができるのか、何度も打ち合わせを繰り返した。

 団体が行き着いたのは協議会プログラムのひとつのモニタリングだった。

 初めてモニタリングの現状を知った時に団体メンバーは一様に驚いた。
 担当者の広げた大阪湾の地図には、胡麻でも撒いたように無数の測定点が記されていた。

 それらは民間によるものも若干あったが、ほぼ全てが国や自治体によるものであった。

 目を落とす一人が気がついた。
 測定されていない空白地域があったのだ。
 それは陸との接点の水際だった。
 行政は船舶を駆使して海域は縦横無尽に計っている。
 だが、防波堤や岸壁の際は全く計っていなかったのである。

 国の担当者は、船舶では測定効率が悪く改変によって継続性が損なわれるからだと言った。

 海釣り団体は、自分たちが測定の空白地帯を担ってやろうという気になった。
 釣り団体の裾野は広く、毎日誰かがどこかで釣っていると言っても過言ではない。

 釣り人はいつでもどこにでもいる。
 釣りに理解のない者から、眉をひそめて言われるこの言葉を逆手にとろう。

 海を愛する釣り人だからこそ海を見守る必要があるのだと。
 だが、意気込みだけで団体にはお金も測定に関する知識もなかった。

 出来るだけ安く上げるために身の回りにあるもので測定器を手作りした。
 透明度はCDでいける。
 採水は水筒を改造したらいける。
 みんなで知恵を出し合い試行錯誤した。

 そして、激安の水質測定キットが誕生した。

 歩調を合わせるように、大阪湾の環境活動にかかわる様々な団体のネットワークも立ち上がった。
 その名も、大阪湾見守りネット。

 こけら落としに「ほっといたらあかんやん大阪湾フォーラム」が開かれ、学識者を招いての基調講演や四十もの市民団体による活動報告が行なわれた。

 ここで釣り団体の発表する水際モニタリングは一際注目を浴びた。
 有名大学の学者が、大阪湾の水際データが蓄積されると貧酸素水塊の動態解明が期待できます、と絶賛した。

 貧酸素水塊? 

 老人らの初めて耳にする言葉だった。
 参加者も皆首を傾げていた。

 学者は、海水表面に浮いてくると青潮と呼びますが、と付け加えた。
 青潮と聞いて数人が頷いた。
 
 一般的に知られている赤潮はプランクトンが増殖したものだ。
 しかし、青潮はプランクトンではない。

 青潮とは何なのか? 

 海底に蓄積した魚介類などの死骸はバクテリアによって分解される。
 そのバクテリアは酸素を消費する。

 夏場、海水の表面と海底面での温度差が大きくなり上下混合が行われなくなる。

 海底面で酸素が消費し続けられると極端に酸素の少ない水の塊が出来る。
 これを貧酸素水塊という。

 酸素のほとんど無い死の水だ。

 これに触れると俊敏性のない魚や貝、ゴカイ類は死滅してしまう。
 貧酸素水塊は海底を彷徨い、気象海象条件が重なったときに海面に浮かび上がる。

 そして、貧酸素水塊は酸素と触れて化学反応を起こす。
 一瞬にして海は白濁する。
 目には、鮮やかなコバルトブルーに映る。

 まるで異国のリゾート地にでも来たかのように誘われ、近寄ってみると強烈な硫化水素の臭いが鼻を刺す。

 温泉地の硫黄の臭いを凝縮したようだ。そこに、夥しい魚が苦しそうに口を開けて死んでいる。
 それが青潮だ。

 老人ら釣り人は、青潮とは言わず苦潮(にがしお)と言うそうだ。
 釣り人は、以前から経験的に苦潮が起こりそうな時を知っていた。

 大阪湾では陸から海に向かって強風が吹いた後だ。
 台風が大阪湾の東側を通過して、吹き返しの風が潮の流れと合ったときに青潮は発生する。
 平均すれば、年に一、二回で、遭遇するのはよほどの釣り好きでも稀だ。

「そっ、それって・・・・・・」
 老人の博識に耳を傾けていた律子は思わず言葉を漏らした。

 老人は口元を緩め意味ありげに律子を見た。

「そう、今日みたいなこんな日ですよ」
 老人は再び腕時計を見ると立ち上がって腰の埃を払い落とした。

「おっ、おい。まさかその青潮とか苦潮ってやつが今日現れるんかっ」
 木村は目を丸くして息を飲んだ。
 律子は無言で頷いた。