「そやから、いつもより早く来たんです」
 確かに、今日は二時のじいさんだった・・・・・・いや、もはやじいさんなどとは心の中でも言えない。

 この老人は、一介の釣り人ではない。
 会った時、直感的に品を感じたのはあながち外れていなかったと律子は思った。

 老人は、腕時計に目をやると箱から水筒を取り出した。
 採水するのだ。

 老人は岸壁の際に立つと紐を繰って水筒を垂らした。
 律子は老人に駆け寄ろうとして置いてあった自分の竿に蹴躓いた。

 が、傾いた竿を直しもしなかった。
 もはや釣りなどどうでもよかった。

 木村は老人の背後に張り付くようにして垂れた紐の水面付近に目をやったり、背伸びして辺りを見回したりしている。

 老人は水筒を引き揚げると、その中の水を針のない注射器で吸い取った。
 水の色が薄いピンクに変わる。
 老人はそれを色見本に照らし合わせた。

「溶存酸素、一も無いなこりゃ」
「ようぞん、酸素?」
 律子は老人の言葉を反復した。

「海水中に溶け込んでいる酸素の量のことです」
 と、老人は律子に優しい目を投げかけた。
 海水中の酸素は、空気中から溶け込むものと藻類から排出されるものよりなる。

 一般に魚介類が生存するためには、海水一リットル中に三ミリグラム以上の溶存酸素が必要だと言われている。
 一ということは、この海底には酸素がほとんど無いと言うことであった。

「つまり、この下にその貧酸素水塊ってやつがあるってことですか」
 木村が割り込む。

「ええ、間違いなく。魚など逃げて一匹もおらんはずです」
「やっぱ、釣れんのは俺らの腕のせいじゃなかったんや」
 木村は変に快活だ。
 そんな木村を老人は口元を緩めて一瞥した。

「状況を読むのも腕の内ですよ」
 老人の言葉に木村は閉口した。

「だいたい岸壁にムラサキイガイがないでしょう」
 老人は岸壁の真下を指さした。
 律子も覗いてみたが、そもそもムラサキイガイがどんなものかも知らない。
 何となく貝の名前のような気がするが。

「確かによく見たら・・・・・・」
 木村の知ったかぶりが出た。
 律子は木村を馬鹿にしたような目で見ると老人の方に向き直って訊いた。

「ムラサキイガイって貝ですか?」
「ええ、黒くてこんなちっちゃいの」
 と、老人は親指と人差し指で大きさをつくった。

 ムラサキイガイとは、フランス料理のムール貝のことだった。
 明治時代に初めて神戸港で確認され全国各地に広まった。

 外国船に付着して移入してきた外来種だ。
 先週まではこの岸壁にも鈴なりになっていたが、数日前からの台風のうねりで剥落したとのことだ。

 今は海底に落下したムラサキイガイの死骸をバクテリアが分解中だという。
 だから酸素が無くなっているのだ。

 そこまで話すと、老人は空き地の方を指さした。

「あそこで黄色い花が揺れてますでしょう。あのセイタカアワダチソウもムラサキイガイと同じ進駐軍ですわ」
 空き地の一角を占める背の高い黄色の花が風に揺れていた。
 律子は、外国から来た背の高い花を進駐軍に例えたのだろうと思った。

 木村は、張り子の虎のように黙って首だけ振っている。
「まあ進駐軍というのはちょっと例えが悪いので外来種と言いましょう」
 老人は独り言のように言って笑った。

「私たちも外来種なんですよ」
 律子は老人の背中に投げかけた。

「へえ、どちらからおこしで?」
 老人が振り向く。

「私は奈良で彼は和歌山です」
「へえ、奈良と和歌山ですか。私はもっと遠くから来た外来種ですわ」
 と老人は乾いた笑い声を上げた。

「どちらからなんですか?」
 律子が訊く。