「私はもともとは九州の長崎やったんです。親父が炭坑は将来性がないと言って、こちらに新しくできる鉄鋼会社に勤めるために家族ごと移住したんですわ。炭坑がまだまだこれから稼げると言う時だったので、親戚なんかからも相当移住を咎められたらしいのですが、今となっては親父は先賢の目があったと思います。移住の時は、子供心に都会の人間とうまくやっていけるのだろうかと思いましたが、来てみたら、これが外来種だらけなんですわ。私の通った小学校は、生粋の大阪人よりもそれ以外の人間の方が多かったような気がします。九州の人間だけでなく、全国各地から集まっていたって感じでしたわ」
 老人は、懐かしむように遠くの空を見上げた。

「大都会ってそんなもんかもしれませんね」
 そう言って、律子は木村をちらりと見た。

 おさまっていた風が、また少し強まったような気がする。
 臨海コンビナートに立ついくつもの煙突から、煙が沖の方へと真横に流れていた。

「青潮になりますでしょうか」
 律子は訊いて海面を覗いた。

「わかりません。それが大阪湾ですわ」
 老人は箱の所に戻ると、温度計を取り出した。

「大阪湾の貧酸素水塊は青潮になりにくいんですわ」
 老人は作業を続けながら寄り添う二人に語り始めた。

 青潮が問題になったのはもう二十年以上も前のことだ。
 それは大阪湾ではなく東京湾だった。

 海底の「深掘り」と呼ばれる大きな穴が原因だとされた。
 東京湾は高度成長期に海底を落とし穴のようにえぐって、その土砂で埋め立てを行った。

 その大きな穴に生物の死骸が蓄積される。
 そしてバクテリアの活動によって貧酸素水塊がつくられるのだ。

 強風が陸から海に向かって吹いた時、海底の水が動いて貧酸素水塊が穴から出る。
 海の水が強風で沖に流されるのと反対に、海底の水は陸側に向かって移動する。

 三番瀬の浅場に到着した貧酸素水塊は、海面に押し上げられ青潮の出現となる。

 東京湾で青潮が顕著に見受けられたのは浅場があったからだ。
 つまり、傾斜構造の浅場が坂道を登るように貧酸素水塊を海面まで押し上げた。

 逆に大阪湾で青潮がなかなか見受けられなかったのは、浅場が少なかったからだと言える。

 浅場を代表する干潟の面積で比較すると、東京湾一六四〇ヘクタールに対し、大阪湾十五ヘクタール。実に大阪湾は東京湾の百分の一しか浅場がない。

 大阪湾の大都市臨海部は、ほとんどが埋め立てによる直立壁になっていた。
 これは山地が迫り平野の小さい大阪が発展を遂げるためには、海に進むしか仕方がなかったからだ。

 貧酸素水塊は発展の象徴である埋め立て地の壁に突き当たって、人目につかないところで生物に悪さをしていたのだ。

 大阪湾のタライのような海底構造が、頻繁に発生していた貧酸素水塊を人目につく青潮になかなか化けさせなかったのである。

 老人はそこまで言うと作業を中断し、二人の方を見た。

「みんな埋め立てのせいですわ」
 律子は鏃のように飛んできた老人の言葉に、一瞬で動きを止められたような気持ちになった。
 木村も口を歪めている。

 木村は老人に何か言いたげだが、言葉が思いつかないのだろう。

 ただ・・・・・・、と律子は思った。

 環境に関しては反論する余地もないが、老人の親父さんは埋め立て地に立つ鉄工所で収入を得、老人を育て上げたのではないのか。

「でも、ここは私がつくったんです」
 老人の言葉に、木村が拍子抜けした顔で腕組みをゆるりと解いた。

 そうか役人で発注者だったのだ。
 と律子は老人がさっきS市に勤めていたと話していたのを思い出した。

「埋め立ての工事の担当者だったのですか?」
「ええ、埋め立ての全盛期でした」
 老人は懐かしむように空き地を眺めた。

「ここは本当は立派な埠頭になる予定でしたが、いつの間にか取り残されましてね」
 老人はキラリと光る目を、地面に落とした。