「あの頃はただ前に進むだけでよかった。あの時までは良かったし誰も悪くなかった・・・・・・私の役所仕事はこの埠頭の完成と共に終わりました」
 老人は俯いた顔を上げた。
 
 目が滲んでいる。
 律子はそれにしても泣くほどのことでもないだろうと思った。

 そんな時代だったのだから仕方がないのではないかと。
 豊かになるための方程式が、時代と共に変わっただけなのだ。

 老人は時勢にあって、埋め立ての良き時代に十分活躍したのではないか。
 埋め立ての全盛期は終わったのだ。

 律子は、はたと自分の仕事のことを思い返して唇をかんだ。
 木村も押し黙ったままだ。

 自分たちは、出来上がった土地が何になるのかも知らない。
 ただ、締め固めているだけなのだ。

 空き地になるかも知れない土地を延々と汗水垂らして締め固めているだけなのだ。
 その労働の対価をパチンコですって将来何が残るんだ。

 二人が捨てた弁当の殻が水面で揺れている。
 行き場を失って逃げるように訪れた海で、何かに追い詰められて息苦しさを覚えるような心持ちになった。
 暫し沈黙が続く。

「人間よかれと思ってやったことが、思った通りにならないことだってありますよ」
 木村がかみしめるようにゆっくりと言った。

 俯いたままの老人への慰めのつもりだったのだろう。
 律子は、木村にしては上出来なコメントだと思った。

 顔を上げた老人の涙は頬にまで達していた。

「私の娘がここで死んだんですよ」
 えっ! 律子は目を剥いた。
 木村は強ばったまま喉仏を震わせた。

「暑い夏の日のことでした」
 老人はへたり込むように座りこんだ。

 埠頭の完成式典は華やかに行われた。
 当時、老人は働き盛りの四十後半で埋め立ての担当課長だった。

 射すような日差しの中、黒ずくめのネクタイ姿の男達が、大勢の関係者が参列する前でくす玉を割った。
 同時に真っ白な服を着た鼓笛隊が、下腹に響くような勢いで演奏を始める。

 直後、一人の男が血相を変えて来賓席のテントに飛び込んできた。
 ただごとではない挙動だが、鼓笛隊の音に掻き消されて聞こえない。

 一番端に座っていた担当課長は、眉をひそめると警護に目で合図をした。
 こんな時にまで埋め立て反対の輩か、とぐらいにしか思わなかった。

 警護の何人かが駆けつけるのを見届けると、課長はまた勇ましい鼓笛隊の演奏にリズムを取って見とれていた。
 その男と一緒に、警護が血相を変えて岸壁の端に駆けていくのを見ることもなく。

 演奏が終わったとたんに場が一変した。
 けたたましい女性の叫び声がする。

 課長は我が耳を疑った。
 家内の声だ。
 
 いったいなぜ?
 駆けつけると、自分の娘が海の上で見知らぬ男に抱きかかえられて揺れていた。
 見たこともない真っ白な顔で目を閉じたまま揺れていた。

 家内は父親の立派な姿を娘に見せようと
 内緒で埠頭に訪れていたのだった。

 五メートルも高さのある直立壁の岸壁には、手を掛ける欠片もなかった。
 父親のつくった岸壁は、容赦なく娘の前に立ちはだかったのだ。

「娘を、助けられませんでした‥‥‥」
 老人は震える声を吐き出すと、両手で顔を覆った。

 律子はただ見守るしかなかった。
 木村もじっとうつむいたままだ。

 やがて老人はゆっくりと手を解くと、気を取り直したかのように立ち上がった。
 いつの間にか雲行きが怪しくなっている。

「来ますよ」
 老人は沖の方を見ると低い声で静かに言った。
 律子は沖の方と老人の顔を交互に見た。