「ほら」
 老人は沖に向かってまっすぐ指を指した。

 遠くの海面で何やら黒いかたまりが蠢いている。
 急に左に動いたかと思うと、今度は右に早くなったり、遅くなったり。

 こちらに近づいているようだ。
 小魚の群れ? 木村が小さな声で言った。

 言われてみれば、大きな魚に追われた時の鰯。
 いつかテレビで見た覚えがあった。

 やがて塊は近づき、魚の形がはっきり見て取れるようになった。
 夥しい小魚の乱舞で海水が爆ぜる。

 刹那、得体の知れない恐怖心が律子に沸き上がってきた。
 紺色に濃く深い海が、見る見る青明っていく。

 正確には青では無く、むしろどんよりと白い。
 血色を失った死人の顔色のように。

 うぅっ臭いっ。
 硫化水素の刺激が鼻の奥に突き刺さった。

 律子は背筋が震え、手足の感覚が麻痺してしまった。
 足下に目を落とした木村が裏返った声を上げる。

「み、見ろっ!」
 足下で黒い虫の塊が這いずり回っていた。
 律子はキャーッと甲高い悲鳴を上げて退いた。

「カニの逃避行動ですよ」
 老人は振り向きもせず独り言のように言った。

 恐る恐る近づいて覗き込むと、岸壁の直立壁を夥しいカニが次々と這い上がっている。
 律子は絶句した。

 周囲はすっかり青潮に支配されていた。
 岸壁に向かって小魚の大群が衝突し始める。

 顎が外れるほど口を開いた小魚が、ぎょろ目を開いたまま海面で舞い狂う。
 眼下は瞬く間に小魚の死骸で真っ白に覆われた。

 目を背けた律子に大阪へと続く海岸線が映る。
 小雨で霞んだ海岸線は、一定の幅のコバルトブルーで縁取られていた。

 間際に林立する高層ビル群が、無機的な巨大ロボットのように足下を見下げている。

 まるで結界に立つ守り主のように・・・・・・。
 いや違う。

 やはり青潮を招き入れ、文明を享受した人間らを嘲ているに違いない。
 華やかな大都会の裏側で。
 
 いつしか律子を霧雨が覆っていた。
 老人は合掌したまま沖を向いて立ちつくしている。

 律子は自分のジャンパーを脱ぎかけた。
 と、背後から木村の手が律子の肩に掛かった。

 目頭の赤らんだ木村は、なぜかいつもより少しだけ男前に見えた。
 木村は自分のジャンパーを脱ぐと、老人に歩み寄って気づかれぬようにそっと羽織らせた。


                                         
                                        了