風来の万博小娘

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    2019年05月

     ピアノマンは順子さんが着座すると口を開いた。


     私の父は神戸港の荷役会社の社長でした。

     私も若い頃からその会社で働いておりまして、家内とは見合いで結婚しました。


     家内は高校の音楽教師をしていましたが結婚してすぐに辞めました。

     ジャズが好きであちこちの店にジャズを聴きに行っていたようです。


     私は仕事しか興味の無い人間でしたので、ジャズなどというものの良さはわかりませんでした。

     だから、家内と二人でジャズを聴きに行った記憶はありません。


     家内はいつも女子大の時の同級生らと行っていたようです。

     私たちには子供がいませんでした。


     家内はそのことについて悩んでいました。


     雅也は、養子です。

     二歳の時に私の姪の家から我が家に来ました。


     私と家内は五十歳になっていました。

     雅也が小学四年の時に阪神大震災が起こり家内が亡くなりました。


     姪の家族は主人も長男も次女も亡くなってしまいました。

     皆が茫然自失となる中で、姪が雅也を引き取りたいと家に来ました。


     姪は平常心を失っていました。


     子供の雅也には最初どのようなことなのかわからなかったようですが、やがて気がつくとしばらくは落ち込んでいました。

     私は雅也を実の母のところに行くようにと説得しました。


     でも雅也は行きませんでした。

     ついに姪は精神疾患と診断され入院しました。


     二、三年ほど入退院を繰り返したあげく自ら命を立ちました。

     その時雅也は中学生でした。


     優しすぎる性格からか、学校でいじめに遭ったようです。

     私は顔を腫らして帰ってくる雅也を見て、何度も先生に訴えましたが何も変わりませんでした。


     雅也は不登校になりました。

     私は学校なんか行かなくていいと思いました。


     幸いなのは私の荷役会社が好調なことだけでした。

     経済的には何の不安もなく、お手伝いさんまで雇って私と雅也は不自由なく暮らしました。


     雅也は独学で高校に行きました。

     高校というか大学に入るための専門学校です。


     そして、雅也は神戸大に入りました。

     私は天にも昇るほど嬉しく喜びました。


     それが入学して一年経とうかという時に、病院から連絡がありました。


     自殺未遂です。睡眠薬でした。

     退院してもめまいや幻聴が続き、引きこもりになってしまいました。


     家のカーテンはずっと閉じられ、食事すらままならない状態となりました。

     その最中、私が健康を損ねました。


     糖尿病による脳梗塞で歩行障害が残りました。

     病院でリハビリをするうち、退院したら雅也と一緒に死のうと思うようになりました。


     それが、私が自宅に戻ると雅也が部屋から出てきて、私の世話をしてくれるようになったのですっ。

     

     話を切ったピアノマンは、体を揺すって嗚咽した。

     順子さんが両手で顔を伏せた。

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    「奥さん、おきれいな方ですね。声もすごく透き通っていて素敵です」

     順子さんの目頭が光る。


    「いやいや、順子さんに言われると家内も恐縮しますよ」

     ピアノマンは口元を緩ませた。


    「あの、わたし思ったんですけど、奥さん、似てますね。若い頃の順子さんに」

     石川先生に向かって順子さんがはっとした顔を上げた。


     石川先生は若い頃から順子さんのことを知っている。

     ピアノマンの奥さんを四十代の頃の順子さんと重ね合わせたのだろう。

     僕は順子さんの顔をまじまじと見た。


    「容姿も歌い方も声色もね。ビブラートを効かせるときに少し斜め上を向くところなんかは瓜二つですよ」

    「私も雅也にブログの映像を見せてもらったときには驚きました」

     ピアノマンの言葉に汽笛が重なる。

     

     遮られたように会話が途切れた。

     汽笛は腹に響くようにボーっと三回鳴った。

     順子さんが立ち上がって船を探す。


     白い大きな船が僕の目にも入った。

    「どこかの豪華客船でしょう」

     ピアノマンは振り返りもせずにつぶやいた。


     ベランダに出た順子さんの短い髪がぱさぱさと風に舞う。

     石川先生は興味が無いのか、座ったまま腕組みをして何かを考えている様子だ。


    「風が出てきましたわね」

     順子さんが両手で身を覆うようにして戻ってきた。

     雅也君がいつの間にかいなくなっていた。

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     画面が明るくなって床らしきものが映る。

     この家のどこかの部屋のような感じだ。


     アングルが変わってグランドピアノに女性が向かっている映像が映った。

     ピアノに向かっている髪の長い小柄な女性がこちらを向いて笑顔でピースサインをする。


     黄色のTシャツにジーパン姿。

     細面の端整な顔立ちだ。


     小さな男の子の声が近づいたり離れたりしている。

     何を言っているのかはわからないが、もういい、もういいと言っているようにも聞こえる。


     女性はやおら弾き語りを始めた。

     アメイジング・グレイスだ。


     小柄なのに声量がある。

     伸びのある透き通った声が響く。


     僕は息をのんで見入った。

     石川先生は食い入るように首を突き出している。

     順子さんは口パクでリズムをとっていた。


     一番が終わって間奏に入ったところで、男の子が現れ「ママ、ママ」と言って太ももの辺りにしがみついた。

     女性は演奏をやめ「マー君、ママいいとこなのにー」と抱き上げてほっぺたをすり寄せた。


     そこで映像は中断され今度は運動会の場面になった。


    「止めていただけますか」

     ピアノマンが静かに言った。


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    「お母さんの歌のCD聴きたいんやけどな」

     雅也君は相づちだけ打って三階に消えていった。


    「うわあ、見せてもらえんのぉ」

     順子さんが嬉しそうに両手を合わせる。

     カチャカチャと音を立てながら雅也君がゆっくりと階段を降りてきた。


     手にはノートパソコンとかコード、マウス、CDのケースを抱えている。

     僕は駆け寄り、持ちにくそうにしている雅也君の手からノートパソコンとコードを取り上げ加勢した。


     ピアノマンがお目当てのCDをめくって探す。

     首を傾げながら、一枚のCDを透かすように裏表見返すと僕にそれを手渡した。


     セットされたパソコンにCDを挿入する。

     順子さんと石川先生が僕をはさんで画面に向かった。

     雅也君は少し離れて立っている。


    「ここでいいんかな」

     雅也君に訊きながら僕は操作を進めた。

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    「あそこに懐かしいものがあるでしょう」

     とピアノマンが肩を揺する。


    「あら珍しいステレオ。あれ鳴んの?」

     順子さんが目を丸くして尋ねる。


    「ええ、ノイズがすごいですけど鳴ることは鳴ります。これも雅也がレコードを全てパソコンにうつしてノイズをとってくれまして、綺麗な音で懐かしい曲を聴いてますわ」

    「へー、なんでもパソコンで出来るようになってほんまに便利な世の中ですね。私ら時代遅れの人間は驚かされるばかりですわ」

     と石川先生は頭をかいた。


    「ほんまにそうですわ。ビデオかて、昔撮ったテープ式のものを雅也が全てCDとか言うものにしてくれて、パソコンでさっと映りますしね」

     そこまで言ってピアノマンは「雅也、雅也」とかすれ声を上げた。

     雅也君が一階から音もなく現れる。

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