風来の万博小娘

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    2019年10月

     当時、老人はS市に勤めていて十五年程前に退職したとのことだ。
     海釣り団体に属して、釣り教室や魚釣り大会などのイベントに盛んに取り組んでいた。

     三年前、協議会の事務局をする国の機関から一緒に大阪湾をきれいにしないかとの声がかかった。
     海釣り団体の会長や事務局長は、行政は自分たちをうまく取り込もうとしているのではないのかと警戒した。

     それは、臨海部を所管する行政と海釣り団体との軋轢が各地で激化した時期でもあったからだ。   原因はソーラス条約である。
     この条約は、一九一二年に北大西洋で沈没したタイタニック号事故を契機に定められた「海上における人命の安全のための国際条約」のことである。
     中身は、船舶や港湾の設備、海上交通の安全確保などに関する国際的な約束事だった。

     二〇〇一年九月にアメリカで同時多発テロが発生し、同条約が見直され保安対策が強化された。
     対象となる埠頭にはフェンスやゲート、監視カメラが設置されて立ち入り制限が強化されたのである。

     これまでも自治体の条例では、荷役作業をしている埠頭への立ち入りは禁止されていた。が釣り人に対しては黙認していた。

     いくら保安のためとはいえ、老人ら釣り人にとっては易々納得できるような事ではない。
     これまでも、臨海部の開発によって釣り場は年々に減少してきていた。

     この上さらに貴重な釣り場がソーラス条約によって失われるのだ。
     そもそも地先に広がる海は誰のものだ、海はみんなのもので公共財ではないかとの主張を海釣り団体は繰り返した。

     臨海部を占有した企業によって都市に住む市民は海を失った。
     兵庫県高砂市を発祥とした入り浜権運動では、既に高度成長期の時代から海までのアクセス問題が投げかけられていた。

     それでも開発は続けられ、大阪湾の都市部では水際に立ち入れる場所がほとんど無くなってしまったのだ。

     その一方で、臨海産業が市民を豊かにした事も事実だ。
     島国日本にとって港湾がどれほど重要か、台風常襲地域の大阪湾に高い波返しがなぜ必要なのかも明白だ。
     しかし、機能優先で海を遮ぎり背を向けて暮らして良いものだろうか。

     市民にも日常的な海との関わりが必要なはずだろう。何とか折り合いのつく方法はないものか。

    「透明度を計るんですわ」
     老人は笑いながら二人を見上げた。

    「透明度?」
    「海がどのくらい透き通っているのかを計るんですわ」
     律子らは不思議そうな表情で老人を見た。

    「まだ時間があるから、ちょっと見せてあげましょう」
     おじいさんは手際よく紐を伸ばすと岸壁の際に立ち、CD付きの鉄網を海中に沈めた。
     律子らも一緒に覗き込む。

     水面付近では鮮やかにきらめくCDも少し沈むとぼやけた。
     老人は身を屈めてしきりに紐を緩めたりたぐったりした。

     CDは見えたり見えなくなったりする。
     やがてCDをたぐり上げると胸ポケットから取り出した手帳に記入した。

    「今日は六十センチしかないですわ」
     律子は、CDが確認できるところまでが海水が澄んでいるということを理解した。
     でも、何故この老人がこんな場所でこんな事をしているのだろう。

    「おじいさん何でそんなことしてるんです?」
     と木村はおじいさんの顔を覗き込んだ。

    「モニタリングですわ」
    「モニタリング?」
    「そう、大阪湾の環境監視、海の環境を見張ってますねん」
    「な、なんでまた?」
    「そらあ、この大阪湾を愛してるからですよ」
     老人は相好を崩した。
     
     老人はカートのそばにやおら腰を下ろすと話を始めた。

     五年程前、大阪湾の環境改善を掲げ国や自治体による協議会が発足した。
     広大な大阪湾をきれいにするためには、省庁や自治体間の垣根を取り払って連携する必要があるからだ。

     協議会では改善のためのプログラムが策定された。
     プログラムは三つの柱から成り立つ。

     一つ目はモニタリングで環境がどうなっているのかを知ること。
     二つ目は汚濁メカニズムの解明でどのような原理で海が汚れているのかを明らかにすること。
     三つ目は環境改善事業で実際に改善するために事業を行うこと、だ。

     分かりやすく大阪湾の環境悪化を人間の病気に例える。
     モニタリングは病気を発見するための定期検診で、汚濁メカニズムの解明は病院での精密検査、環境改善事業は外科的な手術や投薬ということになる。

     プログラムの実施は行政だけでは出来ない。
     学識者や市民団体などとの連携が不可欠だ。

     大阪湾では既に市民レベルで様々な環境活動が繰り広げられていた。
     だが、それらはつながりが無く個別バラバラに活動していた。


     「浅香山ですわ」
    「そら、ちょっとはなれてますねえ。私の知ってる人も浅香山で公団住宅に入ってますけど」
     律子は自分の上司のことを言った。

    「へー、そら私の近くや。公団住宅の近くの松ノ湯って風呂屋の近所なんですわ」
     老人は携帯用の灰皿に煙草をねじ込んだ。

    「おじさん釣ってくださいよ。私らへたやから場所ゆずりますから」
     律子は席でも譲るように手を差し出した。

    「私釣りに来たんと違いますねん」
     律子も木村もえっと口を開けて老人の方を見た。

     じゃあいつも何をしに来ていたの?
     と訊きたかったが老人の言葉を待った。

     老人は目元を緩めるとカートの荷物を下ろし始めた。

    「まあ、あんたらの釣りにも役に立つかもしれませんがね」
     律子は老人の言ってることが理解できなかった。

    「釣りのじゃまはしませんから気にせんと釣っといてください」
     老人はカートに結わえた小箱からなにやら小道具を引っ張り出した。

     律子らはもはや釣りどころではない。
     老人の謎の行動を二人は見守った。

     箱の中から老人が取り出したのは魚を焼く四角い鉄網、その鉄網の中央に貼り着いているのは間違いなく音楽のCDだった。

     アンバランスな組み合わせに二人は眉をひそめて目を凝らした。
     CDの光る面が陽光をギラリと反射する。

     律子は釣り竿を置いて老人の元に歩み寄った。
     木村もついてくる。

    「なんなんです、それ?」
     と、律子はCD付きの鉄網にじっと顔を近づけた。

     上背はそれほど無いが小太りしていた。
     つばのある帽子から無造作に伸びた白髪が飛び出している。

     肩に釣り竿用のバッグを掛け小さなカートを後ろ手に引いていた。
     どこか品のある風貌だ。

    「全然だめです」
     律子が言うと合わせるように木村も首を振った。

    「今日は釣れないでしょう」
     老人は何か根拠でも持っているように言った。

    「混ざっとんので来てみたんやけどなあ」
     木村は知った風に言った。
     老人はふっと口元を緩めた。

     律子は見透かされたような気がした。
     同時に、木村もこんな老人に対してまで見栄を張らなくても良いのにと、少し腹立たしくも思った。

     老人は海に眼をやった。
     何の意味かは分からないが少し頭を垂れて何か言うように口をかすかに動かしている。
     私達を馬鹿にしているような態度ではなく呪文でも唱えているような風だった。

    「まあ、海というものはわかりませんからなあ」
     そう言って老人は釣り竿袋を降ろした。

    「ほんまにそのとおりです」
     律子は老人の言葉に安堵した。
     老人は腰を下ろして煙草を吸い始めた。

    「あなた方は初めて見ますねえ」
    「ここ初めてきたんや」
     木村が答えた。

    「また何でこんな場所に?」
     本当はあなたのことを思い出してが理由なのだが、律子はどう答えようかと少し考えた。

    「たまには近くで釣ろうと思って」
     木村がさりげなく答えた。
     律子は、よく言うよ、としらけて沖の方を向いた。

    「そうか、あの自転車できたんですか。近くてええですねえ」

    「おじさんはどっからですか?」
     律子が訊いた。

    「さあ、天気も良くなったしいまからやで」
     と木村は針にエサをつけ始めた。
     丁寧につけているなと思って見てみると、オキアミを三つほど針にぶら下げていた。

    「ひとつやから食いに来んのや。沢山つけたら海中で目立つから魚も気になって寄ってくるで」
     妙に説得力のある木村の言葉に律子も真似てみた。

     午前中と潮の流れが変わったのか玉ウキは沖の方には流れない。
     足下の岸壁の際にくっついたままだ。

     沖から岸壁に向かって潮が流れているのだろう。
     一時間ほど粘ってみたが当たりはなかった。

    「えーい、昨日の海といっしょや」
     木村がやけになって竿を振る。

    「昨日の海って?」
    「海物語よぉ」
     パチンコの海物語という機種のことだった。
     鮫やカニ、タコなどの絵柄が三つ揃ったら五千円分の玉が出てくる。
     律子もお気に入りの機種だ。

    「あんた確か昨日は久しぶりに洗濯するって寮に居たんじゃないの」
    「手がうずいてな。結局七時頃から行って一回もそろわんかったんや。オレは海は嫌いやっ」
     ふてくされる木村に律子はあきれ顔を返した。
     木村は律子に目も合わせず海面をにらんでいた。

    「どうですか?」
     突然の声に二人とも驚いた。
     振り返るとあの老人が立っていた。

     三時のじいさん、律子はそう思って老人を見た。

     律子と木村は五メートルほど離れると、餌をハリに刺して海中に落とした。
     小さな玉ウキが皺だった海面で揺れる。

     玉ウキは二人の間隔を保ったまま斜め方向に流れていく。
     律子が玉ウキを見失いリールを巻く。
     合わせるように木村も巻く。

     何の手応えもなく玉ウキは寄ってくる。
     水面を切ると玉ウキを支点にしてオモリと餌が風に揺れる。
     掴んでみると餌のオキアミの上半身が無かった。

    「喰われてたんや」
     律子は木村に見せると無邪気に笑った。

     それっきり餌が食いちぎられることはなかった。
     結局昼までの二時間、餌がふやけたので三回ほど付け替えただけだった。

     岸壁から竿先だけ出して昼食にした。
     コンビニ弁当は冷え切っている。

     風は陸から海に向かって吹いていた。
     ナイロン袋が風に舞う。

     陸よりには倉庫や建物もあるが、埋め立て地の先端というのは風を遮るところがない。
     律子は硬くなった飯を箸で起こしながら、荒涼とした空き地を見渡した。

     間近の高層ビル群がここも大都会の一部だということを伺わせる。
     が、ふと、こんな空き地に何の意味があるのだろうかとも思った。

    「ここってうちの会社が締め固めたんかなぁ」
     と、木村が焼き魚の骨を口から引っ張り出した。

     律子は言われてなるほどと思った。
     目前の雑草の大地はよく見ると真っ平らである。

     ローラーで整形しなければこうはならない。
     木村は弁当と箸を持ったまま立ち上がった。

     今居る十メートルほどのコンクリート舗装から雑草まで行くと地面を蹴った。
     律子も続いた。

     つま先に固い感触があった。
     草は根っこだけ残してちぎれた。

    「ん、やっぱ締め固めてあるわ」
     木村は口元を緩めた。

     ローラーで整形しても、雑草が生えたまま放置されるのだったら締め固める意味はない。
     きっとつくる時には立派な利用計画があったのだろう。

     荒涼とした空き地に空っ風が吹きすさぶ。
     二人は黙って元の場所に戻った。

     木村は食べ終わった弁当箱を海に向かって投げた。
     風に乗った弁当箱は予想以上遠くまで飛んでいった。

     すげー、と木村が少したまげた表情で振り返る。
     律子は、もっと飛ばしてやろうと立ち上がった。

     弁当箱をフリスビーのように持って格好を付けた。
     木村が笑う。

     律子はありったけの力で弁当箱を放った。
     なぜか、弁当箱は直ぐに急降下して、あえなく足下の海水に着水した。

    「お前へたっぴやなー、ちょーへたっぴー」
     と、木村が律子の弁当箱を指さして嘲る。

     木村は何を言っても嫌みのない人間だった。
     仕事で詰られたり嘲られたりしたこともあるが、全然腹が立たない。
     律子は自分が寛容だからとは思っていない。

     同じように詰られても他者に対しては不快感を持ち反発もする。
     木村に対してだけなのだ。

     どことなく憎めない人間というのはいる。
     それが木村のような人間だと律子は思っていた。

     例えば今のゴミのように、捨ててもどうってことない場合には何の躊躇もなく捨ててしまう。
     誰か人がいれば彼は決して捨てなかっただろう。

     仕事にしても、あっさり休んでパチンコに行ってしまう。
     有給休暇とはそう言うものだとわかっていても、なかなか実行出来るものではない。

     むしろ堂々とやれば勇ましくもある。が、木村の場合、仮病を使うのだ。
     それも見え透いた仮病。

     木村君は今日頭痛で休むらしい、と皆に伝える上司の口元も緩んでいる。
     豪雨で作業中止などという日なので、彼も許されるのである。

     それでも、会社のある日にパチンコなどいささか気が引けるのか、彼なりに注意は払っているようだ。
     終日パチンコ屋にいれば強烈な煙草の臭いが服に染み付く。
     木村は寮のおばさんにばれないようにと、帰ったら真っ直ぐ自室に向かい着替えるのだ。

     で、なぜばれるのかというと、そんな時に限って勝っているのである。
     勝てば黙っていられない性格。

     同僚らの帰宅を待ちかまえ、絶対に言うなとの前置きでパチンコの勝利の方程式が説かれる。

     また、木村は不器用でもある。
     ソフトボールをすれば三振、トンネル。

     ボーリングをすればガーターの連続。
     体格があり腕力が強いのがよけい嘲笑に拍車を掛ける。

      仕事でも、律子がうまくいかずとまどっていると
     「ちょっとオレにやらせてみろ」
      などとしゃしゃり出るが出来たためしがない。

     そんな木村に詰られても嘲られても全く効き目はないのだ。
     お前は何なんだよ、他人に言えるがらかよ、と心の中で言ってしまえば自然と笑みもこぼれてくる。
     とにかく憎めない奴だと律子は思っていた。

     いつの間にか薄日が差して暖かくなっていた。
     少し風が収まったような感じだ。

    「ねえ、今仕事している隣の埋め立て地に行ってみない」
     律子が言うと、「三時のじいさんか」と木村が微笑んだ。

    「きっと穴場に違いないわ」
    「でっかいチヌが釣れるってか」
     木村は鼻を啜った。

    「そうそう、チヌって黒鯛のことやって」
     律子は思い出したようにインターネットで調べたことを話した。

     木村は話を聞き終えると、黒い鯛なんて初めて知ったわとだけ言った。
     律子も調べるまでは黒い鯛など聞いたこともなく、もちろん見たこともなかった。

     ただ、インターネットによると大阪湾で最も一般的な釣魚とされていた。
     歴史も古く大阪湾はかつてチヌの海と言われていて、今から十一月までが一番釣れる時期らしい。

     約束の土曜日、二人は自転車で近くの釣具屋に向かった。
     仕掛けを色々見たが、結局、店頭に置いてあった全て一式セットを手に取った。
     九百八十円なのに竿もリールも仕掛けも何もかもついている。

    「最初はこんなんでええんやないか」
     と木村が苦笑いした。

     律子も同意し、餌のオキアミを買い足して四号岸壁へと向かった。
     コンテナを積んだ大型車が行き交う臨港線を横切る。倉庫街の向こうに海が揺れていた。海の色がいつもより濃く、点々と白波が立っている。律子は木村の言った、混ぜられたらよく釣れるという言葉を思い出した。

     いつも老人が止めているところに自転車を置いた。
     岸壁を海沿いに進むと潮の香りが鼻を撫でる。

     台風は逸れたが、真っ黒な雲が早く流れていた。
     時折、日光がサーチライトのようにひかりの帯をつくっては消える。

    「きっと昼から風も止んで晴れるって」
     と木村は爽快な表情だ。

     律子は、濃く混ぜられた水面に目を落とし胸を躍らせた。
     チヌが釣れるかもしれない。

     小さなクーラーボックスでも買えば良かった。
     何匹か釣れたら寮のおばさんにあげよう。
     などと、勝手な想像を膨らませる内に埋め立て地の先端に到着した。

     風が強いせいか遠くまで景色がはっきりと見える。
     淡路島や明石の橋までもがくっきりと浮かび上がっていた。

     意外にも船がいない。
     大きな貨物船が行き交っている風景を想像していたが、一隻も見えない。

     紅白の煙突のようなパイプを数本立てた、工事用の船が直ぐ横に着岸されていた。
     律子はナイロン袋を開けて釣り竿を取り出した。

     思ったよりもしっかりした製品だ。
     リールの使い方が説明書に書いてある。

     二人は確かめるようにリールの金具を立てたり倒したりした。
     竿長は三メートルほどあり直立した岸壁での釣りには十分だった。

    「深さどんだけあるんかなあ」
     木村が海面を見下ろす。

    「結構深いんとちやうのん」
     律子には想像もつかなかった。
     山育ちの二人にわかるはずがない。

     海を埋め立てる仕事をしていると言っても、土地になったところを閉め固めているだけなのだ。
     二人とも海の知識はほとんど無い。
     

        社長の、「かつて」と言う言葉は的確だった。
        臨海産業は、かつての栄光になっていた。
        律子や木村などの新米にも、会社の今後が芳しくないとの噂は直ぐに届いたし、埋め立て工事は全盛期の半分以下に落ちていた。

     それでも律子らが採用されたのは、運が良かったと言うしかない。
     団塊の世代が定年を迎え、技術者が不足したのだ。

     この会社ではその現象が顕著に起こった。
     仕事が減ったとはいえ必要以上に社員減れば会社がもたない。

     工業高校を出た律子や木村は、幸運な世代だと言える。

    「人間良いことがあったらそれに釣り合うだけの悪いことがあるって言うやんか。その逆もあったりするけど」
     と、木村が牛丼屋の豚丼を頬張る。

    「それって運良く大企業に入れたけど、パチンコで負け続けてるってこと」
    「ま、それもそうやけど」
     と木村はすまなそうに笑って、カラになった丼を意味ありげに少し持ち上げた。
     律子が笑う。豚丼の支払いのことだった。

     土日は寮のおばさんが休みで飯がないのだ。
     木村は今日一日で四万もパチンコで負けていた。

     律子も一時、三万円負けていたが、最後に連チャンして二万七千円取り戻した。三千円負けているが、なぜか勝ったような気分だ。

    「なあ、今度の土曜日チヌ釣りに行かへんか?」
     食い終えた木村がお茶をすすりながら言う。

    「課長の言ってた穴場に?」
    「そこに行ったら課長に会うかもしれんやんか。どっか別のとこにしようや」
     木村の顔はあまり楽しそうではない。

     木村の動機が釣りに行きたいのではなく、パチンコから逃れたいのは明らかだ。
     逃れられるのなら何でも良いのだろうが他には思いつかないのだろう。

     似たような気持ちの律子は無言で頷いた。
     しかし、二人とも海釣りの経験は全く無い。

     誰か経験者を誘えば心強いが、益々田舎者を露呈することにもなる。

     二人だけなら釣れても釣れなくても気も楽だ。
     どうせ暇つぶしなのだ、わからなければ近くにいる釣り人に聞けばいい。

     と、律子の頭にある釣り人が思い浮かんだ。

     週に一度か二度、仕事中に隣の埋め立て地に現れる老人だ。
     老人はいつも決まった時間に白の軽四ワンボックスで現れる。

     四号岸壁と呼ばれる際に車を止めてハッチを開けると、竿入れと小さなカートを取り出す。
     それを引っ張って埋め立て地の先端まで歩いていくのだ。

     よほどの釣り好きらしく、この現場が始まった二年前から既に来ていたらしい。

     現場のみんなから、「三時のじいさん」と呼ばれていた。
     この付近では他には釣り人を見かけたことはあまりない。
     あんな老人が足繁く通うには、よほどの穴場に違いない。

     休日、時間を持てあましている二人ではあった。
     建設会社の寮は男子と女子が少し離れていたが、律子は連絡を取って、木村と自転車で臨港線のパチンコ屋によく行っていた。

     パチンコは木村から教わった。
     律子は、パチンコ屋で自分と同じ年頃の女性を見かけたことがない。

     律子の年頃は、服や化粧品にお金を掛けるのが一般的なのだ。
     律子は、自分が普通の女の子とは違うことを自覚していたし、その事を少しも変だとは思っていなかった。同時に、都会に出てきて良かったとも思っていた。

     田舎は人情味が厚い反面、鬱陶しくもある。
     人間関係が濃厚で、良い噂も悪い噂もあっという間に広がるのだ。

     娘の分際でパチンコでもしていることが知れたら、村中の噂になり、怖い親父から百叩きの刑に合う。
     都会では、少しぐらいはみ出しても数多の一人なのだ。

     律子を知った人間に出会う確率は極めて低い。
     一度、会社の上司とパチンコ屋で出会したことがある。

     後日職場で話題にされたが、「何でも社会勉強や」と皆から笑い飛ばされる始末だ。
     親に迷惑を掛けず自立し、自分の好きなことをする。律子は今の生活が気に入っていた。
     が、さすがにパチンコの負けが込んでしまい最近やや憂鬱にもなっていた。

    「もう絶対パチンコは止めるぞ」
     木村は律子以上に負けていた。
     おきまりの台詞は何度聞いたかしれない。が、木村のパチンコ通いは止まらない。

     律子は、半年での負けを計算するのが恐ろしかった。
     社会人になって、初めてもらったボーナスもほぼパチンコで使い込んでしまったほどだ。
     律子は、渋い顔で木村に片手を広げた。

    「そんなモンできくかっ」
     木村は吐き捨てるように言った。

     木村は平日も一人で行っていたのだ。半年で七、八十万はすっているのだろう。
     予定では今頃中古の軽四でも乗り回しているところだ。

     寮と会社は五キロほど離れている。路線バスは無い。自転車通勤は雨風の日にはうんざりする。特に海に近いところは風が強い。
     
     律子らの建設会社は、大阪湾の埋立工事を行っていた。
     ローラー車で埋め立て土砂を締め固める作業だ。これが簡単そうで意外に緻密な作業だった。

     土砂の締め固めを土の団子作りに例える。
     固い団子にしようと思えば、少し水を混ぜなければならない。

     水が少なすぎれば団子はぱさぱさになって固まらないし、逆に多すぎるとべちゃべちゃになって固まらないからだ。
     適度な水量で団子は最も硬くなる。最も適した水量を最適含水比として表す。

     律子と木村はこの水量の管理担当をしていた。
     土砂は、大阪湾周辺の山から削り取って、土運船と呼ばれる専用船で運ばれてくる。

     埋め立て地に到着すると、揚土船と呼ばれるベルトコンベヤーのついた船で陸に野積みされる。
     野積み状態で、土の持つ水量がいくらかを計測する。

     おもしろいことに、計測は家庭にあるものと同じ電子レンジで行う。
     水分を蒸発させ持っていた水量を計算するのである。
     最適含水比でなければ、重機で野積みされた山を乾かしたり、散水したりする。

     次に、野積みされた土砂をダンプで運搬して敷き均す。
     敷きならした後の含水比は、専用の計測機器で計る。

     最適含水比でなければ掘り返して乾燥させたり、散水したりする。
     含水比が良い具合になれば一機にローラーで締め固める。

     ただ締め固めればよいと言うわけではない。水たまりが出来ぬように排水勾配を考え、地盤高さを考えながら締め固めなければならない。
     
     入社式の訓辞で社長が声高に言った。
     日本の高度成長を支えてきたのは臨海部のコンビナートであり、かつて、大阪湾東部の臨海産業は日本経済の牽引車であった。その埋め立て造成に関わってきた我が社をみんなで誇りに思おう、と。

     心配していた台風は東に逸れるようだ。天気予報を見ていた井上律子のポケットから携帯電話の着メロが鳴った。電話の向こうで木村が、「予定通り行こうや」と言う。

     誘ったのは木村の方だった。強風で海水が混ざった後はよく釣れるらしいんや。と木村は、「らしい」を強調した。山育ちの木村も海釣りは素人なのだ。

     同期入社の二人は妙に馬があった。共通点は、お互いの出身が山奥の田舎者同士というだけだった。律子は奈良の東吉野村、木村は和歌山の北山村だ。律子の実家は東吉野村で土建会社を営んでいる。四人兄弟の末っ子、三人の兄と共に育てられた律子は男勝りだ。父親からの勧めもあって工業高校に進学した。入った環境システム科は、科名が変更される前は土木科だ。つまり、土木作業員予備軍のいかつい男ばかり。

     律子は小柄だが器量はいい。他にも女性職員は数人いるが一番人気だ。律子はなぜか女性とは気が合わなかった。生い立ちのせいなのかもしれない。が、他の男性から誘われても断っていた。結局、都会の人間との付き合いが億劫なのだ。同じ田舎者の木村となら気を遣わなくて済む。木村には悪いが、決して恋愛感情があるわけではなかった。

     木村と海釣りに行くことになったのは十日ほど前にさかのぼる。
      仕事が一段落して課の職員らで飲み屋に行った時のことだ。

     近くの埋め立て地に穴場がある、と上司が釣りの話を始めた。
    「そこでな、四十五センチものチヌを釣り上げたんや」
     上司は、両手の人差し指を立てて大きさを表した。釣り方、料理の仕方などで場が盛り上がった。山育ちの律子はチヌがどんな魚かも知らない。木村は話に加わって笑っていた。律子は内心しらけて一人料理を食べた。

     翌日、律子は木村に「チヌってどんな魚?」と訊いてみた。
    「実はオレも知らんのや」
     と、木村は周りを伺いながら小声で答えた。

    「あんたなぁ、昨日の雰囲気からしててっきり知ってるのかと思ったのに」
     律子は鼻で笑った。木村はバツが悪そうな顔で「今度行ってみるか?」と言った。律子は「まあ考えとくわ」と返事を濁した。

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