風来の万博小娘

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    歌うヘンリーのじゅんちゃん

    「若いからパソコンお詳しいんやね」

     順子さんの問いに青年が口元を少し緩めたように見えた。


    「私の家内も歌が好きでしてね。ま、阪神大震災で亡くなりましたけど」

     笑顔の順子さんが表情を一転させる。


     石川先生が飲みかけたコーヒーをカチャリと置いた。

    「家内は高校の音楽教師でして、うちでよくアメイジング・グレイスを聴かせてもらいました」

     ピアノマンは笑顔のままコーヒーをすすった。


     ピアノマンからはじめてコメントがきたのは確か順子さんのアメイジング・グレイスの動画を投稿したときだ。

     奥さんを思い出してコメントを寄せてくれたのだろう。


     それにしても、僕は青年のことが気になっていた。

     物静かと言うよりかは表情に乏しい。

     色白で美男子ではあるがどこかうつろな目をしている。



    「あの左手の陸地ですね」

     と石川先生が指を差す。


    「ええ、あれが大阪府と和歌山県の県境の和泉山地です。私の生まれたところはそこからまだ遙か遠い、那智勝浦町というところです」

    「へー、行ったことないけど良いところなんでしょう」

     順子さんの言葉にピアノマンが目を細めた。


     いつの間にか青年がコーヒーとショートケーキを運んできた。


    「さ、まぁお座りください。何もございませんが」

     と、うながす車いすのピアノマンを青年がゆっくりと押す。

     僕らはピアノマンを囲むように応接セットに対座した。


    「私もこの年になってパソコンとかを見るようになりましてね、じゅんちゃんに会えてほんとうに嬉しい限りです。なにもかもこの子のおかげですわ」

     ピアノマンは相好を崩した。


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    「ピアノマンさん、息子さんと二人暮らしなんやて。さ、入って」

     門をくぐると、二階のバルコニーから老人の声がした。


    「ようこそいらっしゃいました。さぁ、上がってください」

     僕と石川先生は頭を下げながら、家の中に入っていった。


     洋風な作りで靴のまま広い階段を上る。

     壁には古ぼけた絵画がいくつも掛かっており、どれも港の風景だった。


     二階が大広間のリビングになっていて、アンティークな応接セットが真ん中に置かれていた。

     バルコニーに出ると心地良い風に吹き付けられた。


    「うわー、すごいなー」

     石川先生が思わず声を上げた。眼下に神戸の港が映る。


     幾何学的な埋めたて地に突き立った高層ビルの群れ、巨大ロボットのようなコンテナを荷揚げするガントリークレーン、その合間を白いボートが白線を引いてまっすぐに走る。


    「ここからは私のふるさとの和歌山が見えるんですよ」

     ピアノマンが口を開いた。


     よく見ると霞んだ水平線の左手に陸地のような黒い塊が乗っかっている。

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     三人が家の中に消えるのを見計らって、僕らは門前に近づいた。

     MIYAKEという粋な表札がかかっている。


     広い庭の芝生は手入れがいきとどいており、所々に赤や黄色の花がほころんでいた。

     携帯の着信音が鳴る。


     石川先生がボクの胸ポケットに目を落とした。

     僕が慌ててその場から離れると石川先生も後についた。


     走りながら携帯を取り出すと着信表示が順子ママとなっている。

     順子さんからや、と石川先生に告げて通話ボタンを押した。


    「あもしもし、ガバチャさん。今どこにいはんの。三ノ宮におるんやろ」

    「ええ、今センター街にいますわ」

     荒れた息を整える。


    「そう、あたしの友達の家にけえへん。すごく良いところよ」

     順子さんはいつもの調子だ。


    「へー、どこなんですか」

    「異人館のうろこの館の近くよ」


    「今、石川先生先生も一緒なんですけど」

    「ああそう。ならちょうどええやん、石川先生も一緒に来はったら」


    「わかりました。じゃあ二十分後ぐらいに着けると思います」

    「はいはい、わかりました。近くに来たらまた電話ちょうだい。うろこの館のすぐ近くの白い大きなお家で三宅さんって表札がローマ字でかかってますので」


    「はい、わかりました。ほんじゃあ」

     事前の打ち合わせどおりだった。


     僕と石川先生は到着時間を合わせるため、少しぶらついた。


     うろこの館に近づいてからは、順子さんに電話を入れるまでのことはない。

     それらしき家がすぐに見つかったでいい。


     僕らは時間調整をして白い家の玄関前に立った。


     呼び鈴を押す。順子さんの大きな返事があった。

     満面の笑顔で出てきた順子さんは、僕らに近寄ると小声で言った。

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     順子さんが吸い寄せられるように歩み始める。


    「まあ、あやしいやつじゃなさそうですね」

     僕の言葉を無視したように、石川先生は順子さんの後を追った。

     僕と石川先生は遠方から何気なく三人の様子をうかがった。


     T字路の突き当たりで、車いすの老人と順子さんが笑顔で挨拶を交わしている。

     車いすに手をかけた青年は、硬い表情のままうつむいていた。


     やがて青年が車いすの方向を変えると、順子さんが寄り添うようにしてT字路の山側に消えていった。


     僕と石川先生が早足で駆け出す。

     T字路から山側を除くと三人は、白い大きな家の門をくぐろうとしていた。


    「でかい家やなあ」

     石川先生が見上げる。

     よほどの資産家に違いない。


     しばらくすると順子さんら三人は二階のバルコニーに姿を現した。

     談笑しながら老人が海側を指さしている。


     何を話しているのか、順子さんが手を合わせて大笑いしている。


    「ほんまにのんきなおばはんやで」

     石川先生は額の汗をハンカチでぬぐった。

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     察知した石川先生が動く。

     僕は人混みに紛れ、早足で順子さんを追い越すと木陰に立って見下ろした。


     石川先生は順子さんを追い越さず、坂の下で塀にもたれかかった。

     立ち尽くす順子さんの視線の先を探す。


     うろこの館と反対方向に伸びる小道は、僕の位置からは民家の屋根に遮られ一番奥までは見えない。

     ただ、順子さんの釘付けになった様子は何かをとらえているはずだ。


     僕は再び順子さんに向かって下ることにした。

     小道の奥が徐々に開ける。


     完全に小道の奥を捕らえた時、足が止まりそうになった。


     そこには、車いすの老人と傍らにうら若い青年が立っていた。

     僕は慌てて石川先生に駆け寄った。


    「ピアノマンおったか」

     石川先生が低い声で訊く。


    「車いすの方でした」

     石川先生はポカンと口を開けた。


    「車いす、ね。なるほど」

     石川先生は雲ひとつない天を仰いだ。

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    「ここから、僕と石川先生は気づかれないよう離れて歩きましょう。うろこの館はそのバス停を左に上がったところです。少し坂がきついですがすぐですよ」

     僕が言い終わるが早いか、順子さんは腕時計に目を落として歩き始めた。


     石川先生はいつの間にかサングラスをかけている。

     炸裂した太陽の周りに雲はない。

     青一色の空が抜けているだけだ。


     うろこの館は異人館巡りの中で一番人気だ。

     サターンの椅子というのがあって、それに座って願い事を唱えればかなうらしい。

     僕も座ったが、宝くじのひとつも当たらなかった。


     うろこの館に続く細い坂道にさしかかる。

     観光客の往来の中に順子さんの後ろ姿が見え隠れした。


     石川先生は僕の後ろについている。

     前傾で腰を折って上っていた順子さんの背筋がぴんと伸びた。


     うろこの館の玄関に到着したようだ。

     左右に首を振ってピアノマンを探している。


     と、順子さんの動作が一点の方向を向いて止まった。

     ピアノマンを発見したのだろうか。


     僕は石川先生に振り返って表情で合図をした。

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    「日焼けしたら大変やろう思うて、センター街の帽子屋で買うたんや。店のお姉さんがこれがこの服に一番似合う言うて見立ててくれたんやで」

     と順子さんは僕と石川先生を見上げた。


    「ピアノマン、びっくりすんで」

     と石川先生が肩を揺する。


    「今朝から、頭かてセットしてきたんや。準備ばんたんやで。ピアノマンが高倉健みたいな人やったらどないしょうか」

     順子さんは人目もはばからず大きな声を上げた。


     石川先生が口元を緩めて歩き始める。

     僕と順子さんが後をつけた。


     異人館までは二十分ほどで到着する。

     土曜日なのでものすごい人出だ。


     半分ほど来たところで、バスツアーの団体に紛れた。

     みんな異人館を目指している。

     上り坂が徐々にきつくなってきた。


    「ガバチャさん、うろこの館って知ってんの」

     と順子さんが息を刻む。


    「以前何度か行ったことがあります」

     順子さんは首を縦に小さく振っただけで、ハァハァと息を荒げて歩き続けた。


     異人館通りに出ると、案内所のところに人だかりがある。

     石川先生が足を止めた。

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    「なんかテレビドラマみたい」

     順子さんが少女のようにはにかむ。


    「ママ、何着て行きはんのん」

     ヤスコさんが笑顔で訊く。


    「着物がいいかしら。暖かくなったから派手なワンピースもいいかな」

     はしゃぐ順子さんに石川先生が苦笑いをした。


     土曜日。午前中の雨が上がって、さわやかな五月晴れが広がった。


     六甲山の濃い緑が沸いて目に目映い。

     阪急三宮駅の西口で順子さんを待った。


     石川先生は既に現れ、喫煙場所でたばこを燻らせている。

     待ち合わせの二時半ちょうどに順子さんは現れた。


     萌葱色のワンピースにつばの大きな白い帽子が揺れている。

     一目見た石川先生がうつむいて口を押さえた

     確かに順子さんには派手すぎる。


    「お待たせ。暖かいわねー今日は」

     駆けつけて順子さんは息を切らせた。


    「大きな帽子ですね」

     僕が言うと、順子さんは大げさに首を振って帽子のつばを揺らせた。

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    「ね、いい人だったでしょ」

     と順子さんが同意を求める。石川先生は口を結んだままだ。


    「なんでお近くやのにお店の方にこられないんやろ」

     そう言ってヤスコさんが口をとがらせる。


    「そんなんどうでもよろしいやん。ピアノマンに会うの楽しみやわ」

     と順子さんは一人ダンスのステップを踏んだ。


    「どうします」

     僕は石川先生を上目遣いで見た。


    「婆さんだけ、行かせるわけにはいかんだろ」

     石川先生は天井を見上げると自分のあごをさすった。


     僕と石川先生がピアノマンに気づかれないように、順子さんの後をつけることになった。

     ヤスコさんは万が一に備えて店で留守番をすることになった。

     

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