風来の万博小僧

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    大都会の裏側で

    「ほら」
     老人は沖に向かってまっすぐ指を指した。

     遠くの海面で何やら黒いかたまりが蠢いている。
     急に左に動いたかと思うと、今度は右に早くなったり、遅くなったり。

     こちらに近づいているようだ。
     小魚の群れ? 木村が小さな声で言った。

     言われてみれば、大きな魚に追われた時の鰯。
     いつかテレビで見た覚えがあった。

     やがて塊は近づき、魚の形がはっきり見て取れるようになった。
     夥しい小魚の乱舞で海水が爆ぜる。

     刹那、得体の知れない恐怖心が律子に沸き上がってきた。
     紺色に濃く深い海が、見る見る青明っていく。

     正確には青では無く、むしろどんよりと白い。
     血色を失った死人の顔色のように。

     うぅっ臭いっ。
     硫化水素の刺激が鼻の奥に突き刺さった。

     律子は背筋が震え、手足の感覚が麻痺してしまった。
     足下に目を落とした木村が裏返った声を上げる。

    「み、見ろっ!」
     足下で黒い虫の塊が這いずり回っていた。
     律子はキャーッと甲高い悲鳴を上げて退いた。

    「カニの逃避行動ですよ」
     老人は振り向きもせず独り言のように言った。

     恐る恐る近づいて覗き込むと、岸壁の直立壁を夥しいカニが次々と這い上がっている。
     律子は絶句した。

     周囲はすっかり青潮に支配されていた。
     岸壁に向かって小魚の大群が衝突し始める。

     顎が外れるほど口を開いた小魚が、ぎょろ目を開いたまま海面で舞い狂う。
     眼下は瞬く間に小魚の死骸で真っ白に覆われた。

     目を背けた律子に大阪へと続く海岸線が映る。
     小雨で霞んだ海岸線は、一定の幅のコバルトブルーで縁取られていた。

     間際に林立する高層ビル群が、無機的な巨大ロボットのように足下を見下げている。

     まるで結界に立つ守り主のように・・・・・・。
     いや違う。

     やはり青潮を招き入れ、文明を享受した人間らを嘲ているに違いない。
     華やかな大都会の裏側で。
     
     いつしか律子を霧雨が覆っていた。
     老人は合掌したまま沖を向いて立ちつくしている。

     律子は自分のジャンパーを脱ぎかけた。
     と、背後から木村の手が律子の肩に掛かった。

     目頭の赤らんだ木村は、なぜかいつもより少しだけ男前に見えた。
     木村は自分のジャンパーを脱ぐと、老人に歩み寄って気づかれぬようにそっと羽織らせた。


                                             
                                            了

    「あの頃はただ前に進むだけでよかった。あの時までは良かったし誰も悪くなかった・・・・・・私の役所仕事はこの埠頭の完成と共に終わりました」
     老人は俯いた顔を上げた。
     
     目が滲んでいる。
     律子はそれにしても泣くほどのことでもないだろうと思った。

     そんな時代だったのだから仕方がないのではないかと。
     豊かになるための方程式が、時代と共に変わっただけなのだ。

     老人は時勢にあって、埋め立ての良き時代に十分活躍したのではないか。
     埋め立ての全盛期は終わったのだ。

     律子は、はたと自分の仕事のことを思い返して唇をかんだ。
     木村も押し黙ったままだ。

     自分たちは、出来上がった土地が何になるのかも知らない。
     ただ、締め固めているだけなのだ。

     空き地になるかも知れない土地を延々と汗水垂らして締め固めているだけなのだ。
     その労働の対価をパチンコですって将来何が残るんだ。

     二人が捨てた弁当の殻が水面で揺れている。
     行き場を失って逃げるように訪れた海で、何かに追い詰められて息苦しさを覚えるような心持ちになった。
     暫し沈黙が続く。

    「人間よかれと思ってやったことが、思った通りにならないことだってありますよ」
     木村がかみしめるようにゆっくりと言った。

     俯いたままの老人への慰めのつもりだったのだろう。
     律子は、木村にしては上出来なコメントだと思った。

     顔を上げた老人の涙は頬にまで達していた。

    「私の娘がここで死んだんですよ」
     えっ! 律子は目を剥いた。
     木村は強ばったまま喉仏を震わせた。

    「暑い夏の日のことでした」
     老人はへたり込むように座りこんだ。

     埠頭の完成式典は華やかに行われた。
     当時、老人は働き盛りの四十後半で埋め立ての担当課長だった。

     射すような日差しの中、黒ずくめのネクタイ姿の男達が、大勢の関係者が参列する前でくす玉を割った。
     同時に真っ白な服を着た鼓笛隊が、下腹に響くような勢いで演奏を始める。

     直後、一人の男が血相を変えて来賓席のテントに飛び込んできた。
     ただごとではない挙動だが、鼓笛隊の音に掻き消されて聞こえない。

     一番端に座っていた担当課長は、眉をひそめると警護に目で合図をした。
     こんな時にまで埋め立て反対の輩か、とぐらいにしか思わなかった。

     警護の何人かが駆けつけるのを見届けると、課長はまた勇ましい鼓笛隊の演奏にリズムを取って見とれていた。
     その男と一緒に、警護が血相を変えて岸壁の端に駆けていくのを見ることもなく。

     演奏が終わったとたんに場が一変した。
     けたたましい女性の叫び声がする。

     課長は我が耳を疑った。
     家内の声だ。
     
     いったいなぜ?
     駆けつけると、自分の娘が海の上で見知らぬ男に抱きかかえられて揺れていた。
     見たこともない真っ白な顔で目を閉じたまま揺れていた。

     家内は父親の立派な姿を娘に見せようと
     内緒で埠頭に訪れていたのだった。

     五メートルも高さのある直立壁の岸壁には、手を掛ける欠片もなかった。
     父親のつくった岸壁は、容赦なく娘の前に立ちはだかったのだ。

    「娘を、助けられませんでした‥‥‥」
     老人は震える声を吐き出すと、両手で顔を覆った。

     律子はただ見守るしかなかった。
     木村もじっとうつむいたままだ。

     やがて老人はゆっくりと手を解くと、気を取り直したかのように立ち上がった。
     いつの間にか雲行きが怪しくなっている。

    「来ますよ」
     老人は沖の方を見ると低い声で静かに言った。
     律子は沖の方と老人の顔を交互に見た。

    「私はもともとは九州の長崎やったんです。親父が炭坑は将来性がないと言って、こちらに新しくできる鉄鋼会社に勤めるために家族ごと移住したんですわ。炭坑がまだまだこれから稼げると言う時だったので、親戚なんかからも相当移住を咎められたらしいのですが、今となっては親父は先賢の目があったと思います。移住の時は、子供心に都会の人間とうまくやっていけるのだろうかと思いましたが、来てみたら、これが外来種だらけなんですわ。私の通った小学校は、生粋の大阪人よりもそれ以外の人間の方が多かったような気がします。九州の人間だけでなく、全国各地から集まっていたって感じでしたわ」
     老人は、懐かしむように遠くの空を見上げた。

    「大都会ってそんなもんかもしれませんね」
     そう言って、律子は木村をちらりと見た。

     おさまっていた風が、また少し強まったような気がする。
     臨海コンビナートに立ついくつもの煙突から、煙が沖の方へと真横に流れていた。

    「青潮になりますでしょうか」
     律子は訊いて海面を覗いた。

    「わかりません。それが大阪湾ですわ」
     老人は箱の所に戻ると、温度計を取り出した。

    「大阪湾の貧酸素水塊は青潮になりにくいんですわ」
     老人は作業を続けながら寄り添う二人に語り始めた。

     青潮が問題になったのはもう二十年以上も前のことだ。
     それは大阪湾ではなく東京湾だった。

     海底の「深掘り」と呼ばれる大きな穴が原因だとされた。
     東京湾は高度成長期に海底を落とし穴のようにえぐって、その土砂で埋め立てを行った。

     その大きな穴に生物の死骸が蓄積される。
     そしてバクテリアの活動によって貧酸素水塊がつくられるのだ。

     強風が陸から海に向かって吹いた時、海底の水が動いて貧酸素水塊が穴から出る。
     海の水が強風で沖に流されるのと反対に、海底の水は陸側に向かって移動する。

     三番瀬の浅場に到着した貧酸素水塊は、海面に押し上げられ青潮の出現となる。

     東京湾で青潮が顕著に見受けられたのは浅場があったからだ。
     つまり、傾斜構造の浅場が坂道を登るように貧酸素水塊を海面まで押し上げた。

     逆に大阪湾で青潮がなかなか見受けられなかったのは、浅場が少なかったからだと言える。

     浅場を代表する干潟の面積で比較すると、東京湾一六四〇ヘクタールに対し、大阪湾十五ヘクタール。実に大阪湾は東京湾の百分の一しか浅場がない。

     大阪湾の大都市臨海部は、ほとんどが埋め立てによる直立壁になっていた。
     これは山地が迫り平野の小さい大阪が発展を遂げるためには、海に進むしか仕方がなかったからだ。

     貧酸素水塊は発展の象徴である埋め立て地の壁に突き当たって、人目につかないところで生物に悪さをしていたのだ。

     大阪湾のタライのような海底構造が、頻繁に発生していた貧酸素水塊を人目につく青潮になかなか化けさせなかったのである。

     老人はそこまで言うと作業を中断し、二人の方を見た。

    「みんな埋め立てのせいですわ」
     律子は鏃のように飛んできた老人の言葉に、一瞬で動きを止められたような気持ちになった。
     木村も口を歪めている。

     木村は老人に何か言いたげだが、言葉が思いつかないのだろう。

     ただ・・・・・・、と律子は思った。

     環境に関しては反論する余地もないが、老人の親父さんは埋め立て地に立つ鉄工所で収入を得、老人を育て上げたのではないのか。

    「でも、ここは私がつくったんです」
     老人の言葉に、木村が拍子抜けした顔で腕組みをゆるりと解いた。

     そうか役人で発注者だったのだ。
     と律子は老人がさっきS市に勤めていたと話していたのを思い出した。

    「埋め立ての工事の担当者だったのですか?」
    「ええ、埋め立ての全盛期でした」
     老人は懐かしむように空き地を眺めた。

    「ここは本当は立派な埠頭になる予定でしたが、いつの間にか取り残されましてね」
     老人はキラリと光る目を、地面に落とした。

    「そやから、いつもより早く来たんです」
     確かに、今日は二時のじいさんだった・・・・・・いや、もはやじいさんなどとは心の中でも言えない。

     この老人は、一介の釣り人ではない。
     会った時、直感的に品を感じたのはあながち外れていなかったと律子は思った。

     老人は、腕時計に目をやると箱から水筒を取り出した。
     採水するのだ。

     老人は岸壁の際に立つと紐を繰って水筒を垂らした。
     律子は老人に駆け寄ろうとして置いてあった自分の竿に蹴躓いた。

     が、傾いた竿を直しもしなかった。
     もはや釣りなどどうでもよかった。

     木村は老人の背後に張り付くようにして垂れた紐の水面付近に目をやったり、背伸びして辺りを見回したりしている。

     老人は水筒を引き揚げると、その中の水を針のない注射器で吸い取った。
     水の色が薄いピンクに変わる。
     老人はそれを色見本に照らし合わせた。

    「溶存酸素、一も無いなこりゃ」
    「ようぞん、酸素?」
     律子は老人の言葉を反復した。

    「海水中に溶け込んでいる酸素の量のことです」
     と、老人は律子に優しい目を投げかけた。
     海水中の酸素は、空気中から溶け込むものと藻類から排出されるものよりなる。

     一般に魚介類が生存するためには、海水一リットル中に三ミリグラム以上の溶存酸素が必要だと言われている。
     一ということは、この海底には酸素がほとんど無いと言うことであった。

    「つまり、この下にその貧酸素水塊ってやつがあるってことですか」
     木村が割り込む。

    「ええ、間違いなく。魚など逃げて一匹もおらんはずです」
    「やっぱ、釣れんのは俺らの腕のせいじゃなかったんや」
     木村は変に快活だ。
     そんな木村を老人は口元を緩めて一瞥した。

    「状況を読むのも腕の内ですよ」
     老人の言葉に木村は閉口した。

    「だいたい岸壁にムラサキイガイがないでしょう」
     老人は岸壁の真下を指さした。
     律子も覗いてみたが、そもそもムラサキイガイがどんなものかも知らない。
     何となく貝の名前のような気がするが。

    「確かによく見たら・・・・・・」
     木村の知ったかぶりが出た。
     律子は木村を馬鹿にしたような目で見ると老人の方に向き直って訊いた。

    「ムラサキイガイって貝ですか?」
    「ええ、黒くてこんなちっちゃいの」
     と、老人は親指と人差し指で大きさをつくった。

     ムラサキイガイとは、フランス料理のムール貝のことだった。
     明治時代に初めて神戸港で確認され全国各地に広まった。

     外国船に付着して移入してきた外来種だ。
     先週まではこの岸壁にも鈴なりになっていたが、数日前からの台風のうねりで剥落したとのことだ。

     今は海底に落下したムラサキイガイの死骸をバクテリアが分解中だという。
     だから酸素が無くなっているのだ。

     そこまで話すと、老人は空き地の方を指さした。

    「あそこで黄色い花が揺れてますでしょう。あのセイタカアワダチソウもムラサキイガイと同じ進駐軍ですわ」
     空き地の一角を占める背の高い黄色の花が風に揺れていた。
     律子は、外国から来た背の高い花を進駐軍に例えたのだろうと思った。

     木村は、張り子の虎のように黙って首だけ振っている。
    「まあ進駐軍というのはちょっと例えが悪いので外来種と言いましょう」
     老人は独り言のように言って笑った。

    「私たちも外来種なんですよ」
     律子は老人の背中に投げかけた。

    「へえ、どちらからおこしで?」
     老人が振り向く。

    「私は奈良で彼は和歌山です」
    「へえ、奈良と和歌山ですか。私はもっと遠くから来た外来種ですわ」
     と老人は乾いた笑い声を上げた。

    「どちらからなんですか?」
     律子が訊く。

     元々釣りの好きだった老人が、知人の紹介で入った海釣り団体は、単に釣技を磨く集まりではなく釣りを通して市民の暮らしを楽しく豊かにすることを標榜していた。

     ある日、老人らが釣りを楽しんでいた場所にも突然フェンスが張られた。
     そこは釣りだけではなく、市民がジョギングや散策をし、時には家族連れがお弁当を広げるような憩いの場であった。

     老人らが来訪者らにアンケートをとったところ、保安という名の締め出しに納得のいかない人の方が圧倒的に多かった。

     人がいない所ほど物騒なことが起こるし、人がいないところでゴミの不法投棄は多発する。
     釣り人や市民を閉め出して閑散とした場所にするよりかは、かえって多くの市民で賑わっている方が治安にはプラスになるはずだ。
     と、海釣り団体は釣り人側の考えを主張した。

     そんなやり取りの最中、同じ国の機関の別のセクションから、大阪湾をきれいにするために一緒に協力しないかとの相談を受けたのである。

     再三相談を持ちかけてくる国の担当者の熱意に、海釣り団体の疑念もやがて溶けた。
     釣り人の自分たちに何ができるのか、何度も打ち合わせを繰り返した。

     団体が行き着いたのは協議会プログラムのひとつのモニタリングだった。

     初めてモニタリングの現状を知った時に団体メンバーは一様に驚いた。
     担当者の広げた大阪湾の地図には、胡麻でも撒いたように無数の測定点が記されていた。

     それらは民間によるものも若干あったが、ほぼ全てが国や自治体によるものであった。

     目を落とす一人が気がついた。
     測定されていない空白地域があったのだ。
     それは陸との接点の水際だった。
     行政は船舶を駆使して海域は縦横無尽に計っている。
     だが、防波堤や岸壁の際は全く計っていなかったのである。

     国の担当者は、船舶では測定効率が悪く改変によって継続性が損なわれるからだと言った。

     海釣り団体は、自分たちが測定の空白地帯を担ってやろうという気になった。
     釣り団体の裾野は広く、毎日誰かがどこかで釣っていると言っても過言ではない。

     釣り人はいつでもどこにでもいる。
     釣りに理解のない者から、眉をひそめて言われるこの言葉を逆手にとろう。

     海を愛する釣り人だからこそ海を見守る必要があるのだと。
     だが、意気込みだけで団体にはお金も測定に関する知識もなかった。

     出来るだけ安く上げるために身の回りにあるもので測定器を手作りした。
     透明度はCDでいける。
     採水は水筒を改造したらいける。
     みんなで知恵を出し合い試行錯誤した。

     そして、激安の水質測定キットが誕生した。

     歩調を合わせるように、大阪湾の環境活動にかかわる様々な団体のネットワークも立ち上がった。
     その名も、大阪湾見守りネット。

     こけら落としに「ほっといたらあかんやん大阪湾フォーラム」が開かれ、学識者を招いての基調講演や四十もの市民団体による活動報告が行なわれた。

     ここで釣り団体の発表する水際モニタリングは一際注目を浴びた。
     有名大学の学者が、大阪湾の水際データが蓄積されると貧酸素水塊の動態解明が期待できます、と絶賛した。

     貧酸素水塊? 

     老人らの初めて耳にする言葉だった。
     参加者も皆首を傾げていた。

     学者は、海水表面に浮いてくると青潮と呼びますが、と付け加えた。
     青潮と聞いて数人が頷いた。
     
     一般的に知られている赤潮はプランクトンが増殖したものだ。
     しかし、青潮はプランクトンではない。

     青潮とは何なのか? 

     海底に蓄積した魚介類などの死骸はバクテリアによって分解される。
     そのバクテリアは酸素を消費する。

     夏場、海水の表面と海底面での温度差が大きくなり上下混合が行われなくなる。

     海底面で酸素が消費し続けられると極端に酸素の少ない水の塊が出来る。
     これを貧酸素水塊という。

     酸素のほとんど無い死の水だ。

     これに触れると俊敏性のない魚や貝、ゴカイ類は死滅してしまう。
     貧酸素水塊は海底を彷徨い、気象海象条件が重なったときに海面に浮かび上がる。

     そして、貧酸素水塊は酸素と触れて化学反応を起こす。
     一瞬にして海は白濁する。
     目には、鮮やかなコバルトブルーに映る。

     まるで異国のリゾート地にでも来たかのように誘われ、近寄ってみると強烈な硫化水素の臭いが鼻を刺す。

     温泉地の硫黄の臭いを凝縮したようだ。そこに、夥しい魚が苦しそうに口を開けて死んでいる。
     それが青潮だ。

     老人ら釣り人は、青潮とは言わず苦潮(にがしお)と言うそうだ。
     釣り人は、以前から経験的に苦潮が起こりそうな時を知っていた。

     大阪湾では陸から海に向かって強風が吹いた後だ。
     台風が大阪湾の東側を通過して、吹き返しの風が潮の流れと合ったときに青潮は発生する。
     平均すれば、年に一、二回で、遭遇するのはよほどの釣り好きでも稀だ。

    「そっ、それって・・・・・・」
     老人の博識に耳を傾けていた律子は思わず言葉を漏らした。

     老人は口元を緩め意味ありげに律子を見た。

    「そう、今日みたいなこんな日ですよ」
     老人は再び腕時計を見ると立ち上がって腰の埃を払い落とした。

    「おっ、おい。まさかその青潮とか苦潮ってやつが今日現れるんかっ」
     木村は目を丸くして息を飲んだ。
     律子は無言で頷いた。

     当時、老人はS市に勤めていて十五年程前に退職したとのことだ。
     海釣り団体に属して、釣り教室や魚釣り大会などのイベントに盛んに取り組んでいた。

     三年前、協議会の事務局をする国の機関から一緒に大阪湾をきれいにしないかとの声がかかった。
     海釣り団体の会長や事務局長は、行政は自分たちをうまく取り込もうとしているのではないのかと警戒した。

     それは、臨海部を所管する行政と海釣り団体との軋轢が各地で激化した時期でもあったからだ。   原因はソーラス条約である。
     この条約は、一九一二年に北大西洋で沈没したタイタニック号事故を契機に定められた「海上における人命の安全のための国際条約」のことである。
     中身は、船舶や港湾の設備、海上交通の安全確保などに関する国際的な約束事だった。

     二〇〇一年九月にアメリカで同時多発テロが発生し、同条約が見直され保安対策が強化された。
     対象となる埠頭にはフェンスやゲート、監視カメラが設置されて立ち入り制限が強化されたのである。

     これまでも自治体の条例では、荷役作業をしている埠頭への立ち入りは禁止されていた。が釣り人に対しては黙認していた。

     いくら保安のためとはいえ、老人ら釣り人にとっては易々納得できるような事ではない。
     これまでも、臨海部の開発によって釣り場は年々に減少してきていた。

     この上さらに貴重な釣り場がソーラス条約によって失われるのだ。
     そもそも地先に広がる海は誰のものだ、海はみんなのもので公共財ではないかとの主張を海釣り団体は繰り返した。

     臨海部を占有した企業によって都市に住む市民は海を失った。
     兵庫県高砂市を発祥とした入り浜権運動では、既に高度成長期の時代から海までのアクセス問題が投げかけられていた。

     それでも開発は続けられ、大阪湾の都市部では水際に立ち入れる場所がほとんど無くなってしまったのだ。

     その一方で、臨海産業が市民を豊かにした事も事実だ。
     島国日本にとって港湾がどれほど重要か、台風常襲地域の大阪湾に高い波返しがなぜ必要なのかも明白だ。
     しかし、機能優先で海を遮ぎり背を向けて暮らして良いものだろうか。

     市民にも日常的な海との関わりが必要なはずだろう。何とか折り合いのつく方法はないものか。

    「透明度を計るんですわ」
     老人は笑いながら二人を見上げた。

    「透明度?」
    「海がどのくらい透き通っているのかを計るんですわ」
     律子らは不思議そうな表情で老人を見た。

    「まだ時間があるから、ちょっと見せてあげましょう」
     おじいさんは手際よく紐を伸ばすと岸壁の際に立ち、CD付きの鉄網を海中に沈めた。
     律子らも一緒に覗き込む。

     水面付近では鮮やかにきらめくCDも少し沈むとぼやけた。
     老人は身を屈めてしきりに紐を緩めたりたぐったりした。

     CDは見えたり見えなくなったりする。
     やがてCDをたぐり上げると胸ポケットから取り出した手帳に記入した。

    「今日は六十センチしかないですわ」
     律子は、CDが確認できるところまでが海水が澄んでいるということを理解した。
     でも、何故この老人がこんな場所でこんな事をしているのだろう。

    「おじいさん何でそんなことしてるんです?」
     と木村はおじいさんの顔を覗き込んだ。

    「モニタリングですわ」
    「モニタリング?」
    「そう、大阪湾の環境監視、海の環境を見張ってますねん」
    「な、なんでまた?」
    「そらあ、この大阪湾を愛してるからですよ」
     老人は相好を崩した。
     
     老人はカートのそばにやおら腰を下ろすと話を始めた。

     五年程前、大阪湾の環境改善を掲げ国や自治体による協議会が発足した。
     広大な大阪湾をきれいにするためには、省庁や自治体間の垣根を取り払って連携する必要があるからだ。

     協議会では改善のためのプログラムが策定された。
     プログラムは三つの柱から成り立つ。

     一つ目はモニタリングで環境がどうなっているのかを知ること。
     二つ目は汚濁メカニズムの解明でどのような原理で海が汚れているのかを明らかにすること。
     三つ目は環境改善事業で実際に改善するために事業を行うこと、だ。

     分かりやすく大阪湾の環境悪化を人間の病気に例える。
     モニタリングは病気を発見するための定期検診で、汚濁メカニズムの解明は病院での精密検査、環境改善事業は外科的な手術や投薬ということになる。

     プログラムの実施は行政だけでは出来ない。
     学識者や市民団体などとの連携が不可欠だ。

     大阪湾では既に市民レベルで様々な環境活動が繰り広げられていた。
     だが、それらはつながりが無く個別バラバラに活動していた。


     「浅香山ですわ」
    「そら、ちょっとはなれてますねえ。私の知ってる人も浅香山で公団住宅に入ってますけど」
     律子は自分の上司のことを言った。

    「へー、そら私の近くや。公団住宅の近くの松ノ湯って風呂屋の近所なんですわ」
     老人は携帯用の灰皿に煙草をねじ込んだ。

    「おじさん釣ってくださいよ。私らへたやから場所ゆずりますから」
     律子は席でも譲るように手を差し出した。

    「私釣りに来たんと違いますねん」
     律子も木村もえっと口を開けて老人の方を見た。

     じゃあいつも何をしに来ていたの?
     と訊きたかったが老人の言葉を待った。

     老人は目元を緩めるとカートの荷物を下ろし始めた。

    「まあ、あんたらの釣りにも役に立つかもしれませんがね」
     律子は老人の言ってることが理解できなかった。

    「釣りのじゃまはしませんから気にせんと釣っといてください」
     老人はカートに結わえた小箱からなにやら小道具を引っ張り出した。

     律子らはもはや釣りどころではない。
     老人の謎の行動を二人は見守った。

     箱の中から老人が取り出したのは魚を焼く四角い鉄網、その鉄網の中央に貼り着いているのは間違いなく音楽のCDだった。

     アンバランスな組み合わせに二人は眉をひそめて目を凝らした。
     CDの光る面が陽光をギラリと反射する。

     律子は釣り竿を置いて老人の元に歩み寄った。
     木村もついてくる。

    「なんなんです、それ?」
     と、律子はCD付きの鉄網にじっと顔を近づけた。

     上背はそれほど無いが小太りしていた。
     つばのある帽子から無造作に伸びた白髪が飛び出している。

     肩に釣り竿用のバッグを掛け小さなカートを後ろ手に引いていた。
     どこか品のある風貌だ。

    「全然だめです」
     律子が言うと合わせるように木村も首を振った。

    「今日は釣れないでしょう」
     老人は何か根拠でも持っているように言った。

    「混ざっとんので来てみたんやけどなあ」
     木村は知った風に言った。
     老人はふっと口元を緩めた。

     律子は見透かされたような気がした。
     同時に、木村もこんな老人に対してまで見栄を張らなくても良いのにと、少し腹立たしくも思った。

     老人は海に眼をやった。
     何の意味かは分からないが少し頭を垂れて何か言うように口をかすかに動かしている。
     私達を馬鹿にしているような態度ではなく呪文でも唱えているような風だった。

    「まあ、海というものはわかりませんからなあ」
     そう言って老人は釣り竿袋を降ろした。

    「ほんまにそのとおりです」
     律子は老人の言葉に安堵した。
     老人は腰を下ろして煙草を吸い始めた。

    「あなた方は初めて見ますねえ」
    「ここ初めてきたんや」
     木村が答えた。

    「また何でこんな場所に?」
     本当はあなたのことを思い出してが理由なのだが、律子はどう答えようかと少し考えた。

    「たまには近くで釣ろうと思って」
     木村がさりげなく答えた。
     律子は、よく言うよ、としらけて沖の方を向いた。

    「そうか、あの自転車できたんですか。近くてええですねえ」

    「おじさんはどっからですか?」
     律子が訊いた。

    「さあ、天気も良くなったしいまからやで」
     と木村は針にエサをつけ始めた。
     丁寧につけているなと思って見てみると、オキアミを三つほど針にぶら下げていた。

    「ひとつやから食いに来んのや。沢山つけたら海中で目立つから魚も気になって寄ってくるで」
     妙に説得力のある木村の言葉に律子も真似てみた。

     午前中と潮の流れが変わったのか玉ウキは沖の方には流れない。
     足下の岸壁の際にくっついたままだ。

     沖から岸壁に向かって潮が流れているのだろう。
     一時間ほど粘ってみたが当たりはなかった。

    「えーい、昨日の海といっしょや」
     木村がやけになって竿を振る。

    「昨日の海って?」
    「海物語よぉ」
     パチンコの海物語という機種のことだった。
     鮫やカニ、タコなどの絵柄が三つ揃ったら五千円分の玉が出てくる。
     律子もお気に入りの機種だ。

    「あんた確か昨日は久しぶりに洗濯するって寮に居たんじゃないの」
    「手がうずいてな。結局七時頃から行って一回もそろわんかったんや。オレは海は嫌いやっ」
     ふてくされる木村に律子はあきれ顔を返した。
     木村は律子に目も合わせず海面をにらんでいた。

    「どうですか?」
     突然の声に二人とも驚いた。
     振り返るとあの老人が立っていた。

     三時のじいさん、律子はそう思って老人を見た。

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